明治三陸地震


明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、明治時代の日本の三陸沖で発生した地震である。
1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源として
起こった、マグニチュード8.2-8.5という巨大地震であった。更に、地震に伴って、本州における当時の観測史上最高の遡上高である海抜
38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた。
1888年(明治21年)の磐梯山の噴火や、1891年(明治24年)の濃尾地震の時から新聞報道が全国的にされるようになり、義援金が集まるよう
になった。
各地の震度は2-3程度であり、緩やかな長く続く振動であったが誰も気にかけない程度の地震であった。(最大は秋田県仙北郡の震度4)
地震による直接的な被害はほとんどなかったが、大津波が発生し、甚大な被害をもたらした。
地震の観測は中央気象台(現・気象庁)および測候所の他、郡役所などの委託観測所でも行われ報告されていた。当時の震度階級は「烈」
(震度6相当)、「強」(4-5)、「弱」(2-3)、「微」(1)の4段階であり、本地震では弱震および微震の範囲が広く分布していたが、一部「強」と
報告された場所もあった。
大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。
遡上高は、北海道庁幌泉郡(現・北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で
3m、宮城県牡鹿郡女川村(現・女川町女川浜女川)で3.1mであったが、岩手県の三陸海岸では、下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)で
14.6m、同郡船越村(現・下閉伊郡山田町船越)で10.5m、同郡重茂村(現・宮古市重茂)で18.9m、上閉伊郡釜石市(現・釜石市釜石)で
8.2m、気仙郡吉浜村(旧・気仙郡三陸町吉浜、現・大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧・気仙郡三陸町綾里、現・大船渡市
三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している。
特に綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時最も高い遡上高である海抜38.2mを記録した。

アメリカ合衆国のハワイ州には全振幅2.4-9.14mの高さの津波が到来し、波止場の破壊や住宅複数棟の流失などの被害が出た。また、
アメリカ本土ではカリフォルニア州で最大9.5ft(約2.90m)の高さの津波を観測したが、被害は記録されていない。

 被害

・人的被害
 ・死者、行方不明者合計:2万1959人(北海道:6人、青森県:343人、岩手県:1万8158人、宮城県:3452人)
  ・死者:2万1915人
  ・行方不明者:44人
 ・負傷者:4398人
・物的被害
 ・家屋流失:9878戸
 ・家屋全壊:1844戸
 ・船舶流失:6930隻
・その他:家畜、堤防、橋梁、山林、農作物、道路などの流失、損壊

行方不明者が少ない理由について、震災後当初は、宮城県の一部や青森県では検死を行い、死者数と行方不明者数を別々に記録し発表
していたが、「生存者が少ない状況の下で、煩雑な検死作業をしていられなかった」という状況の中で「検死を重視していなかった」等の社会
背景により、「行方不明者」という概念はなくなり、死亡とみなされるものは全て「溺死」あるいは「死亡」として扱われた。

 メカニズム

明治三陸地震は、震度が小さいにもかかわらず巨大な津波が発生し2万人を超す犠牲者が出た。これは、この地震が巨大な力(マグニ
チュード8.2-8.5)を持ちながらゆっくりと動く地震であったためである。最近の研究では、この時北アメリカプレートと太平洋プレートが幅50km、
長さ210kmにわたって12-13mずれ動いたことが分かってきた。太平洋プレートの境界面には柔らかい堆積物が大量に溜まっており、
それが数分にわたってゆっくり動いたと推定される。その独特の動きが激しく揺れる地震波よりもはるかに大きなエネルギーを海水に与えた
と考えられる。
また、地震動の周期自体も比較的長く、地震動の大きさの割に人間にはあまり大きく感じられない、数秒周期の揺れが卓越していた。このた
め震度が2-3程度と小さく、危機感が高まりにくかったと考えらえる。
この地震により震源域の海水は64km^3が海面より持ち上げられ、強大な津波を発生したと推定されている。
2011年に発生した東北地方太平洋沖地震では地震波の解析によりプレート境界において、陸地側の深部における高周波地震動を伴う断層
の滑りと、海溝側の浅部におけるダイナミックオーバーシュートと呼ばれる低周波地震動を伴う蓄積量を超える滑りが交互に発生したと推定
されている。この内、強大な津波を発生させたのは海溝側の浅部の滑りであり、明治三陸地震では海溝側の浅部における滑りのみが発生し
たものと理解される。
日本では後年、明治三陸地震や1946年アリューシャン地震のような地震発生時の地殻変動が通常の地震に比べて急激ではなくゆっくりと長
時間続く地震を「ゆっくり地震」、それにより地震動が小さいにもかかわらず大きな津波を発生させることのある地震を「津波地震」と呼ぶよう
になった。

 誘発地震

本震に影響を受け、震源域および余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している。

・2か月半後の1896年(明治29年)8月31日:岩手県と秋田県の県境付近で陸羽地震(M7.2)が発生。
・8か月後の1897年(明治30年)2月20日:宮城県沖地震(M7.4)が発生。
・1年1か月半後の1897年(明治30年)8月5日:三陸沖の地震(M7.7)が発生。
・1年10か月後の1898年(明治31年)4月23日:宮城県沖の地震(M7.2)が発生。
・37年後の1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(M8.1)は、この地震のアウターライズ地震と推定されている。

昭和三陸地震


昭和三陸地震(しょうわさんりくじしん)は、1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分48秒に、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約
200km(北緯39度7.7分、東経145度7.0分)を震源として発生した地震。気象庁の推定による地震の規模はM8.1。
震源は日本海溝を隔てた太平洋側であり、三陸海岸まで200km以上距離があったため、三陸海岸は軒並み震度5の強い揺れを記録した
が、明治三陸地震の時と同じく、地震規模に比べて地震による直接の被害は少なかった。しかし地殻変動によって発生した大津波が襲来
し、被害は甚大となった。最大遡上高は岩手県気仙郡綾里村(現・大船渡市三陸町の一部)で、海抜28.7mを記録した。津波第一波は、地震
から約30分で到達したと考えられる。

 各地の震度

・震度5:岩手県宮古市
     宮城県仙台市、石巻市
     福島県福島市、猪苗代測候所
     茨城県石岡市
・震度4:北海道函館市、浦河町、釧路市
     青森県青森市
     岩手県盛岡市、水沢観測所
     福島県いわき市
     茨城県水戸市、筑波山測候所
     栃木県足尾測候所
     群馬県前橋市
     埼玉県熊谷市
     神奈川県横浜市
     山梨県甲府市

 メカニズム

太平洋プレート内における単一アスペリィの破壊による正断層型のアウターライズ地震であり、1896年明治三陸地震に影響を受けたとみら
れている。保存されていた地震波と津波記録を用いた解析によれば、破壊開始点は1971年に計算された震央位置より約100km北方の北緯
40.13°東経144.52°の深さ20km、破壊継続時間は約60秒であった。また、地震波解析によるモーメントマグニチュードはMw=7.9、最大すべり
量は5.4m、津波の解析によるモーメントマグニチュードはMw=7.8、最大すべり量は3.2mと計算された。

 鳴動現象

「地震の直前に鳴動音、地震の後に砲撃または遠雷のような轟音を聞いた」との証言が多数ある。この中で、地震発生後に聞こえた砲撃ま
たは遠雷のような音は、地震動により破壊された岩盤から発せられた音が空中を伝わったものと考えられる。同様な音は1995年に発生した
喜界島付近での地震でも聞こえたことが報告されている。

 各地の被害

岩手県 死者:1316人、行方不明:1397人、家屋被害:4035
宮城県 死者:170人、行方不明:138人、家屋被害:1474
青森県 死者:23人、行方不明:7人、家屋被害:264
北海道 死者:13人、行方不明:0人、家屋被害:0
合計 死者:1522人、行方不明:1542人、家屋被害:5773

 誘発地震

・秋田県鹿角郡宮川村群発地震:1933年3月26日から鳴動を伴う地震があり、1週間以上続いた。
・岩手県二戸郡一戸町奥中山群発地震:1933年8月から9月。
・秋田県鹿角郡花輪・尾去沢群発地震:1936年の8月頃から地鳴が続き、11月中旬から地震動を感じるようになり、11月20日には尾去沢鉱
 山のダムが損壊し下流の尾去沢町のほとんど全部を押し流し、死傷者数100名。
・宮城県刈田郡七ヶ宿村群発地震:1935年6月18日より蔵王山の近くで鳴動が始まり、26日午後9時30分頃及び40分に局所的な地震が発生
 し、鳴動は7月1日頃まで続いた。

 対策

当時、1929年(昭和4年)10月24日にウォール街大暴落に端を発した世界恐慌が、1930年(昭和5年)1月11日の金解禁により日本にも波及
し、昭和恐慌に陥っていた。東北地方では1931年(昭和6年)の冷害で農村が疲弊し、1933年(昭和8年)には当地震および津波で漁村も疲
弊。さらに翌1934年(昭和9年)には凶作に見舞われた。
当時の内閣総理大臣・斎藤実は、仙台藩・水沢城下(現・岩手県奥州市)に生まれ育っており、被災地は地元といえる。震災は第64回帝国議
会(1932年12月24日-1933年3月26日)の会期中に発生し、2月24日に国際連盟でリットン報告書の表決を不服とした松岡洋右日本全権が退
席、3月8日に政府が国際連盟脱退を決めるという国際関係でも緊迫した事態に陥る中、斎藤内閣は震災翌日には応急対策の協議を始め、
租税の減免などを決めた。
また、被災地に派遣された各省庁の事務官などが復旧のための昭和8年度追加予算の策定作業をし、会期末まで日数がない中で追加予算
630万円(現在の価値で300億円超)が議会で決定した。その後、1934年(昭和9年)に東北振興調査会が設置され、東北の経済振興を目的
に東北興行(現・三菱マテリアル)および東北振興電力(現・東北電力)の両特殊会社が設立された。
経済振興とは別に、当震災を契機として直接的な津波対策として以下のようなものがなされた。

宮城県
震災から約4ヶ月後の同年6月30日、宮城県は「海嘯罹災地(かいしょうりさいち)建築取締規則」を公布・施行した。
当条例は、津波被害の可能性がある地区内に建築物を設置することを原則禁止しており、住宅を建てる場合には知事の許可が必要とし、工
場や倉庫を建てる場合には「非住居 ココニスンデハ キケンデス」の表示を義務付けた。違反者は拘留あるいは科料に処すとの罰則も規
定された。
1950年(昭和25年)に建築基準法が施行され、災害危険区域を指定して住宅建築を制限する主体は市町村となったため、当条例は既に存
在していないとの説があるものの、廃止された記録もないため、現行法上の有効性は不明。なお、県内では現行法に基づいて仙台市、南三
陸町、丸森町が災害危険区域を条例で指定しており、沿岸自治体の仙台・南三陸町の2市町のみが県の当条例を一部引き継いでいるとも
見なせるが、現行法で認める違反者への50万円以下の罰金が3市町の条例ではいずれも規定しておらず、罰則規定については引き継がれ
なかったと言える。1964年(昭和39年)の新潟地震を契機として、1972年(昭和47年)に防災のための集団移転促進事業に係る国の財政上
の特別措置等に関する法律が公布・施行され、災害危険区域からの防災集団移転促進事業の財政的な裏付けがなされた。
ただし、同事業における補助金は事業費の3/4の充当であるため、事業主体の地方公共団体が事業費の1/4を負担しなくてはならないこと、
平時において移転促進区域内の住民の同意を得て全住居の移転を達成しなくてはならないことなど実施にはハードルが高く、2011年(平成
23年)3月11日の東日本大震災以前に県内で同事業が実施されたのは、1978年(昭和53年)6月12日の宮城県沖地震後に仙台市の27戸が
移転した例に留まっている。

岩手県・田老
1982年(昭和57年)までに海抜10m、総延長2433mの巨大な防潮堤が築かれた。
1958年(昭和33年)に完成した1期工事の防潮堤は、1960年(昭和35年)5月23日に発生・襲来したチリ地震津波の被害を最小限に食い止め
ることに成功した。これにより、田老の巨大防潮堤は全世界に知れ渡った。
この巨大防潮堤は田老の防災の象徴となっていたが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による大津波はこの防潮堤を越
えて町内を襲い、全域が壊滅状態となった。

その他
・因果関係は不明であるが、前兆現象としてイワシ、マグロ、カツオが豊漁であったと報告されている。また、前日に神奈川県三崎港に水揚
げされたイワシの体内には、通常の5倍の量の底養生プランクトンがあった。
・宮沢賢治は地震発生の4日後、大木実へのはがきで「被害は津波によるものが最も多く海岸は実に悲惨です」と記した。また、宮沢賢治が
生まれたのは1896年(明治29年)で、明治三陸地震の2ヶ月後のことであった。

チリ地震


1960年のチリ地震は、同年5月、チリ中部のビオビオ州からアイセン州北部にかけての近海、長さ約1000km、幅200kmの領域を震源域として
発生した超巨大地震である。地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害が発生した。
地震の発生時刻は現地時間の5月22日15時11分14秒、震源はチリ中部の都市バルディビア近海で、規模は表面波マグニチュード(Ms)で
8.3-8.5、モーメントマグニチュード(Mw)では推定9.5である。Mw9.5という値は、近代地震学の計器観測史上で世界最大であり、歴史地震を
含めても最大級である。長さ1000km、滑り量10mを越える断層が活動したと考えられ地震モーメントM0は2.0x10^23N・m(2.0x10^30dyn・cm)
に達すると推定される。
日本の東北地方海岸に到達した験潮所波形の数値解析によれば、長さ850km、幅180km、滑り17m、傾斜角20°の低角逆断層モデルが東北
沿岸の津波を最も再現できるとされる。
最大震度は、日本の気象庁震度階級で震度6相当とされている。
まず前震がM7.5で始まりM7クラスの地震が5~6回続いた後、本震がMs8クラスで発生した。また余震もM7クラスであったため、首都のサン
ティアゴを始め、全土が壊滅状態になった。地震による直接的な犠牲者は1743名、負傷者は667名。
前日には単独でも巨大地震といえる前震も発生したが、M7を超える余震は3つのみにとどまっている。

前震
・1960年5月21日10:02(UTC)、南緯37.83°、西経73.38°、Mw8.2
・1960年5月22日18:56(UTC)、南緯38.15°、西経72.98°、Mw7.9

本震
・1960年5月22日19:11(UTC)、南緯38.29°、西経73.05°、Mw9.5

余震
1960年6月6日5:55(UTC)、南緯45.70°、西経73.50°、Mw7.2
1960年6月20日2:01(UTC)、南緯38.26°、西経73.32°、Mw7.0
1960年6月20日12:59(UTC)、南緯39.21°、西経73.32°、Mw7.1

 再来間隔

この震源域では1575年、1737年および1837年にも巨大地震が発生し、1837年の津波は日本にも襲来した記録があるが、津波堆積物の調査
から、堆積物を形成するような特に規模の大きな当該タイプの巨大地震は平均300年間隔で発生し、前回は1575年バルディビア地震である
可能性が高いとされている。

 噴火の誘発

本震の38時間後に噴火したコルドン・カウジェ山をはじめとして、1年以内に以下の火山が噴火している。20世紀に地球上で発生したMw9ク
ラスの巨大地震はいずれも地震後数年以内に近隣の複数の火山の噴火を誘発している。コルドン・カウジェ山やベテロア山はマウレ地震
(2010年チリ地震)後にも噴火している。
・2日後:コルドン・カウジェ山
・49日後:ベテロア山
・54日後:トゥブンガティト山
・7ヶ月後:カルゴフ山

 地殻変動と地震波

この地震によりアタカマ海溝が盛り上がり、沖合に点在する島では少なくとも5.7mの隆起、海岸に沿ったアンデス山脈西側が2.7m沈降すると
いう大規模な地殻変動も確認された。これはアンデス山脈に平行する向斜褶曲をもたらし、このような地殻変動の観測結果はアタカマ海溝
沿いのナスカプレートの沈み込み帯における低角逆断層の震源モデルを支持している。
後の推定によると幅200km長さ800kmに渡って断層が20mずれたことにより、有感地震が半径1000kmという広範囲に渡って観測された。史
上初の地球自由振動の観測に成功し、発生した地震波は地球を3周したことがアメリカの観測で確認された。本震の振動は約20分後に日本
国内の地震観測網でも捉えられた。
1957年から1967年の間に観測されたChandler運動(周期約14ヶ月の極運動)のうち、1960年の観測結果からチリ地震発生によって地軸の年
周運動に不連続が認められた。地球に何らかの原因で弾性球の変形が生じた場合、Chandler運動に変化が生じると予測されるが、たとえ
1960年チリ地震のような巨大地震であってもその変形量ではChandler運動を励起するには全く不十分であるとされていた。しかし、1964年ア
ラスカ地震において、震源域から約5000kmも離れたハワイ諸島においても10^-8程度の永久歪が観測され、このような微小な地殻変動
であっても全地球にわたって積分すればChandler運動を励起する可能性があるとされた。

 津波

本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、平均時速750kmで伝搬した津波は約15時間後にはハワイ諸島を襲った。振幅の
最大値は日本6.1m、アリューシャン3.4m、カナダ3.3m、ハワイ2.9m、オーストラリア1.6mを観測している。ハワイ島のヒロ湾では最大到達標
高10.5mの津波を観測し、61名が死亡した。
太平洋を伝搬する津波の周期は非常に長く、ヒロでは高さ数フィート程度の第一波到達1時間後に最大波が襲来し、海岸線から800m以上内
陸まで壊滅的な被害となった。
日本はチリから見て地球の真裏近くにあり津波が収斂しやすい位置関係であったため、他の太平洋沿岸地域と比べ被害が大きかった。地
震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6.1mの津波が三陸沿岸を中心に襲来し、日本の各地に被害をもたらした。気象庁はこの
津波をチリ地震津波と命名した。
・死者行方不明:142名
・負傷者:855名
・建物被害:46,000棟
・罹災者:147,898名
・罹災世帯:31,120世帯
・船舶被害:2,428隻
・木材流失:19,290件
・道路損壊:45箇所
・橋梁流失:14箇所
・堤防決壊:34箇所
津波による被害が大きかったのはリアス式海岸の奥にある港で岩手県大船渡市では53名、宮城県志津川町(現南三陸町)では41名、北海
道浜中町霧多布地区では11名が死亡。浜中町では1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度にわたって市街地は壊滅的な被害
を受けた。街の中心でもある霧多布地区はこの津波により土砂が流出し、北海道本島より切り離され島と化した。現在は陸続きだった所に2
つ橋が架けられており、本島と行き来ができる。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確
保するためである。東北地方太平洋側のほか、伊勢湾台風の被災から間もない三重県南部も津波被害を受けた。
また、過去の度重なる津波被害を受けて高さ10mの巨大防潮堤を建造していた岩手県田老町(現宮古市)では、この津波による被害が全く
出なかった。実際には津波が防潮堤まで到達しなかっただけであったが、翌日の新聞報道ではこの巨大防潮堤が功を奏したかのように報道
され、田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設されることになった。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震
で津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。

 防災への影響

地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かったことが指摘され、以後気象庁は日本国外で発生した海洋型
巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。
当時は津波のオンライン観測網は無く、検潮所や潮位観測所に人が定期的に見に行く仕組みであった。

東日本大震災


東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震に
より引き起こされた大規模地震災害である。この地震によって福島第一原子力発電所事故が起こった。発生した日付から3.11と称することも
ある。
2011年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km、仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋
沖地震が発生した。地震の規模はモーメントマグニチュード(Mw)9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。
震源は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10万平方キロメートルという広範囲全てが震源域とされ
る。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。

 被害

この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊
滅的な被害が発生した。また、巨大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を
経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種インフラが寸断された。
2015年(平成27年)7月10日時点で、震災による死者・行方不明者は18,466人、建築物の全壊・半壊は合わせて399,301戸が公式に確認され
ている。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告さ
れている。復興庁によると、2015年6月11日時点の避難者等の数は207,132人となっており、避難が長期化していることが特徴的である。
・津波による浸水面積:561km^2
・津波被害農地:21,480ha(宮城:14,340、福島:5,460、岩手:730)
・漁船被害:28,612隻
・漁港被害:319港
日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算している。この額は、被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総
生産の合計に匹敵する(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどであった)。世界銀行の推計では、自然災害による経済
損失額としては史上1位としている。

 福島第一原発

地震から約1時間後に遡上高14-15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、全電力を喪失。原子炉を冷却できなくなり、1号
炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展した。この事故は国際原子力
事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置付けられている。同原発の立地する福島県浜通り地方を中
心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化するとともに、2012年からは「帰還困難区域」「居住制限区域」も設定された。その他に火力発
電所等でも損害が出たため、東京電力の管轄する関東地方は深刻な電力不足に陥り、震災直後の一時期には日本国内では65年ぶりに計
画停電が実施された。計画停電は東北電力管内でも震災直後に実施されたほか、翌2012年の夏前には関西電力管内でも大飯発電所(大
飯原発)の再稼働を巡って議論が起き、計画停電の可能性が議論された。

 災害対策の動き

日本政府は地震発生から31分後の15時14分に、史上初の緊急災害対策本部を設置した。3月12日夜の持ち回り閣議で、政令により「平成
23年(2011年)東北地方太平洋沖地震等による災害」を激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律(激甚災害法)に基づく
激甚災害に指定し、同じく政令により特定非常災害特別措置法に基づく特定非常災害に指定した(いずれの政令も3月13日公布)。また、青
森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、千葉県、東京都は災害救助法の適用を決定した(適用市町村は都県ごとに指定)。3月22
日、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、内閣府は、東北地方太平洋沖地震と津波による被害について被災者生活再建支
援法を適用することを決定した(適用地域は青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、千葉県)。ただし、国および福島県は原発
事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めず、福島県には適用していない。

 問題点・課題

震災後、ボランティア活動に対する保健衛生上の規制や支援車両に対する道路交通法の規制など、現在の法令による制限が復興の障害と
なっていることが明らかになった。復興の遅れにより経済や生活に二次的な被害が生じているため、関係自治体では災害特区指定や特別
立法への期待も大きい。市街地が壊滅した岩手県陸前高田市などでは、集落ごと高台に移転するといった大規模な対策が検討されている
が、課題も山積している。
震災以後も、2011年9月には戦後最大級の勢力をもって上陸した台風15号によって被災地が広範囲で浸水し、福島第一原発では汚染水上
昇等の被害が起きている。膨大な量のがれきをどのように処理するかについても、がれきに付着した放射性物質の濃度が問題とされ、広域
的な処理は進んでいない。
国および福島県は原発事故に伴う長期避難世帯を被災者生活再建支援法の長期避難世帯と認めていないことから、原発事故の長期避難
に伴う災害関連死(特に「原発関連死」と呼ばれる)対策や、原発避難者生活再建支援施策が求められている。

 死傷者

・合計  死亡:15,892名、行方不明:2,574名、負傷:6,152名、計:24,618名
・北海道 死亡:1名、行方不明:-、負傷:3名、計:4名
・青森県 死亡:3名、行方不明:1名、負傷:112名、計:116名
・岩手県 死亡:4,673名、行方不明:1,129名、負傷:213名、計:6,015名
・宮城県 死亡:9,540名、行方不明:1,240名、負傷:4,145名、計:14,925名
・秋田県 死亡:-、行方不明:-、負傷:11名、計:11名
・山形県 死亡:2名、行方不明:-、負傷:29名、計:31名
・福島県 死亡:1,612名、行方不明:201名、負傷:183名、計:1,996名
・茨城県 死亡:24名、行方不明:1名、負傷:712名、計:737名
・栃木県 死亡:4名、行方不明:-、負傷:133名、計:137名
・群馬県 死亡:1名、行方不明:-、負傷:42名、計:43名
・埼玉県 死亡:-、行方不明:-、負傷:45名、計:45名
・千葉県 死亡:21名、行方不明:2名、負傷:258名、計:281名
・東京都 死亡:7名、行方不明:-、負傷:117名、計:124名
・神奈川県 死亡:4名、行方不明:-、負傷:138名、計:142名
・新潟県 死亡:-、行方不明:-、負傷:3名、計:3名
・山梨県 死亡:-、行方不明:-、負傷:2名、計:2名
・長野県 死亡:-、行方不明:-、負傷:1名、計:1名
・静岡県 死亡:-、行方不明:-、負傷:3名、計:3名
・三重県 死亡:-、行方不明:-、負傷:1名、計:1名
・高知県 死亡:-、行方不明:-、負傷:1名、計:1名

 地域別の被害状況

岩手県
岩手県の被害は津波によるものが中心であった。岩手県沿岸は、海岸線近くまで山地が迫り、平地が狭いという地形のため、浸水面積は
58km^2と3県では最も小さかった。しかし、その狭い平地に漁港と市街地が広がっていたため、浸水域の人口は約11万人であり、浸水域の
人口密度は1,900人/km^2と3県で最も大きかった。県中南部は津波高が増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策の規
模は日本随一であった。過去の津波の伝承や石碑が至る所に残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大き
く上回る規模の津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くがほぼ天
井まで水没して避難者の大半が死亡し、市街地全域が壊滅的被害を受けた。高田病院で4階まで浸水し27人が亡くなるなど、1,800人弱の犠
牲者を出した。市職員も1/3弱に当たる113人が犠牲になり、浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、大槌町と同率の
11.72%であった。
大槌町では、役場で災害対策本部の準備をしていた職員60人中、当時の町長である加藤宏喗を含め30人以上が亡くなるなど、1,300人弱が
犠牲になった。また、火災も発生した。浸水域人口に対する犠牲者率は、宮城県女川町に次いで高く、陸前高田市と同率の11.72%であっ
た。
釜石市では、本来は災害後の避難生活を主とした施設であった鵜住居地区防災センターで津波避難の訓練も行われていたため、244人が
避難して210人の死者が発生するなど、約1,050人が犠牲となった。
鵜住居地区は市内の犠牲者の半分以上を占める悲劇の一方で、「釜石の奇跡」と呼ばれる津波教育の成功例もあった。市立釜石東中学校
では、地震発生直後に生徒たちが自己判断で避難先に各自走り出し、それを見た隣接の鵜住居小の児童も続いた。第一避難先の介護施
設に到着して整列点呼で全員の無事を確認したが、想定にとらわれないとの教育の下、中学生が小学生の手を引いてさらに高台へ走り出
し、それを見た地域住民も後に続いた。学校は10mを超える高さの津波に襲われ、第一避難先の介護施設も1階が水没したが当日登校した
生徒児童約600人全員が無事であった。また、生徒たちがさらに上へ避難していく姿を見た介護施設側は、1階の入所者を3階へ移動させて
いたため、犠牲者が出なかった。
山田町では、介護老人保健施設「シーサイドかろ」で入所者74人と職員14人が亡くなるなど、750人以上が犠牲となった。また津波に加えて
大火も発生した。
宮古市の田老地区は、総延長2433mのX字型、海抜10mの巨大な防潮堤が城壁のように地区を取り囲んでおり、住民は万里の長城と呼び
「津波防災の町」を宣言するほどであったが、それを破壊、越流した津波により地区全体で185人が亡くなるなど、500人以上が犠牲となった。
大船渡市では特別養護老人ホーム「さんりくの園」で62人が亡くなるなどし、400人以上が犠牲となった。
この他にも野田村や田野畑村でも甚大な被害を受けた。

宮城県
宮城県は震源地に最も近く、福島県や茨城県と共に激震であった。津波の被害としては、浸水面積327km^2と浸水域の人口約33万人はとも
に3県最大だったため、宮城県のみで阪神・淡路大震災を上回る犠牲者を出した。
県北部は岩手県中南部沿岸と同様に津波高の増すリアス式海岸のため、津波常襲地域であり、津波への対策(防波堤や防潮堤)が成され
ていた。過去の津波の伝承や石碑が至る所に残り、住民の防災意識も高く、多くの人々が避難行動を取ったが、想定を大きく上回る規模の
津波が押し寄せたため、甚大な被害を受けた。
県中南部は単調な海岸線であったが、水深の浅い仙台湾で津波の速度が落ち、後の津波が追い付いて津波高が増した。速度が落ちたた
め、襲来まで1時間であったが、北部に比べて中南部は過去の津波が数百年前であり、住民の意識が低い中で想像だにしない津波に襲わ
れた。平野が広がっていたため数キロ内陸まで浸水し、甚大な被害を受けた。
気仙沼市では、介護老人保健施設「リバーサイド春圃」で59人が、杉の下地区の住民が避難した海抜12mの高台で93人が亡くなるなど、犠
牲者は1,350人に及んだ。また、津波により漁船用燃料タンクが倒壊して広範囲に重油が流出して出火、大火災が発生し夜通し燃え続けた。
火が付いた大量のがれきが気仙沼湾内を漂い、東北最大の有人島である大島にも燃え移り、島民達が総出で延焼を食い止めた。
南三陸町では、3階建ての防災対策庁舎の屋上まで水没するなど町職員42人が、5階建ての公立志津川病院も4階天井付近まで水没し、入
院患者107人中72人と職員3人が死亡。また、海抜15mの高台にあった特別養護老人ホーム「慈恵園」も1階が水没して49人が亡くなるなど、
850人以上が犠牲となった。
女川町は震源に最も近いリアス式海岸の町の一つであり、猛烈な津波が町を襲い、中心部は海抜20mの高さまで水没し、強い引き波により
鉄筋の建物の倒壊も目立った。指定避難所であった町立女川病院(女川町地域医療センター)は、海抜16mの高台にあったにもかかわず、1
階が完全に水没した。七十七銀行女川支店では屋上に避難していた行員13人が流され12人が亡くなるなど、犠牲者は900人であり、浸水域
人口に対する犠牲者率は当震災において最大の11.97%であった。一方で5階建ての生涯学習センターでは、屋根付近まで水没したにもか
かわらず、鉄扉で密閉され窓もなかったボイラー室に避難した30人弱が無事であった。
石巻市は、本震災最大の3,700人以上の犠牲者を出している。市内東北部、リアス式海岸に当たる旧雄勝町、旧北上町、旧河北町の沿岸は
ほぼ完全に壊滅した。3階建ての雄勝病院は完全に水没し、入院患者と職員の65人が流されて生存者は3人、北上川の河口北部にあった石
巻市北上総合支所では職員と避難者合わせて57人のうち生存者は3人だけであった。津波はその北上川を氾濫させながら猛烈な勢いで遡
上し、5km上流に位置する石巻市立大川小学校(旧河北町立)では徒歩で避難していた児童78人と職員11人が流され、助かったのは児童4
人と職員1人のみであった。
市内南部が旧石巻市であり、岩手・宮城・福島では最大規模約12万人の市街地が海に面して広がっていた。このため犠牲者数も多く、また
市内各地で身動きの取れない渋滞が発生し、そのまま津波に飲まれる者も多かった。前市長であった土井喜美夫も犠牲となった。
東松島市では市域の36%が浸水した。野蒜地区は、東側の仙台湾(石巻湾)から押し寄せた津波が内陸2キロ弱を横断し、西側の松島湾に
流れ込み、指定避難所が津波に飲まれた。その一方で、個人が作った避難所によって約70人が津波の被害を免れた。このほか、特別養護
老人ホーム「不老園」の入所者56人が亡くなるなど、野蒜地区や大曲地区が壊滅し、約1,100人が犠牲となった。航空自衛隊松島基地も冠水
し、多くの航空機が破損した。
多賀城市は、仙台市のベッドタウンであり、大きな幹線道路2本に沿って郊外型の大型店が立ち並んでいた。海に面しているのは東部の砂
押川河口のごく一部であり、市民ですら海の街という認識は薄く、幹線道路を通過する市外の者はさらに認識が薄かった。地震の混乱で道
路が大渋滞しているところ、建物の間から突然津波が襲来した。犠牲者は2本の幹線道路の車内を中心に200人弱であり、その半数は市外
に住む人であった。
仙台市は104.7万人を擁する政令指定都市であったが、沿岸部の仙台平野の大部分が開発が制限される市街化調整区域であり、田園地帯
が広がっていたため、人口密集地への浸水はほぼなかった。しかし、沿岸部にあった主な集落である若林区荒浜地区や宮城野区中野蒲生
地区が壊滅し、また仙台港一帯の工業地域や商業地域を中心に、犠牲者数は800人以上となった。若林区では区域の60%が浸水し、田園
地帯を3-4km内陸まで浸水する様子がNHKのヘリコプターからも撮影され、大きく報道された。荒浜にある仙台市消防ヘリポートも被害を受
け、津波到達前に離陸した2機のヘリコプター以外の機材が使用不可能になる被害を受けたため、内陸部への移転が計画されている。
名取市では市域の27%が浸水した。中心市街地は内陸部にあったが、沿岸部にあった閖上地区が壊滅的被害を受けるなど、1,000人弱が
犠牲となった。閖上大橋が死亡事故により通行止めとなり、地区内で渋滞が発生し、犠牲者を増やす要因ともなった。仙台空港の滑走路が
冠水する様子は、国内外でも大きく報道された。
岩沼市は市域の48%が浸水し200人弱が、亘理町でも町域の48%が浸水し300人弱が犠牲となった。仙台市や名取市同様に中心市街地は
内陸部にあったが、沿岸部の集落が壊滅した。
山元町では町域の38%が浸水した。養護老人ホーム「梅香園」と併設するケアハウスで82人が犠牲に、常磐山元自動車学校の送迎バス5台
が津波に飲まれ、教習生と教官の39人が犠牲になるなど700人弱が犠牲となった。
この他に、七ヶ浜町でも甚大な被害を受けた。
一方、松島町や塩竈市は周辺の自治体と比較しても被害が軽微であった。これは浦戸諸島とその奥にある松島湾内の島嶼群が津波の威
力を緩和、分散したためと推測される。ただし、あくまでも周囲に比べれば軽微だったというだけであり、家屋の浸水や犠牲者が出たことに変
わりはない。

福島県
福島県は、沖合の全域が震源域となり、宮城県や茨城県と共に激震であった。
津波の被害としては、浸水面積は112km^2と岩手県を上回っている。しかし、福島県の沿岸部は湾や入り江がなく、遠浅の地形のため漁港
に適さず、港を中心とした市街地形成が成り立ちにくい県であった。沿岸市町村の中心市街地は、海岸線より数km内陸にあったため、浸水
域人口は7万人弱、浸水域の人口密度は600人/km^2と、ともに3県で最も少なく、犠牲者数も比例して少なく済んだといえる。福島県沿岸は、
仙台市以南から千葉県まで続く遠浅で単調な海岸線であり、過去に津波の伝承すら皆無だったために、住民の意識が低い中で津波に襲わ
れた。広大な震源域の中に存在した3か所の大きな断層破壊の1つが茨城県北部近海であり、県南部のいわき市に最も早く津波が到達して
北上し、宮城県沖で発生して南下してきた津波の動きと複雑に交わったとみられる。福島第一原子力発電所付近(大熊町)で15m、隣接する
富岡町付近で20mと、周囲に比べても地形に特段の違いがないにも関わらず極端に高い津波高を観測していることから、この付近では南北
方向からの津波が増幅しあったと推測される。
漁港がある自治体で100人以上の犠牲者があり、相馬市で約450人、南相馬市で650人以上、いわき市で350人以上、浪江町で200人弱、新
地町で100人以上が犠牲になるなど、甚大な被害を受けた。
この他に、双葉郡の双葉町、大熊町、富岡町、樽葉町、広野町の沿岸も大きな被害が出たが、沿岸集落がごく小規模かほとんどなかったた
め、それぞれ数十人の犠牲者であった。
双葉郡は漁港が未発達で産業に乏しかった過去から、積極的に東京電力の電力供給地となり、福島第一原子力発電所、福島第二原子力
発電所、広野火力発電所と日本有数の電力供給源になっていた。そこを津波が襲来し、日本がかつて経験したことのない全電源喪失による
福島第一原子力発電所事故の発生へとつながっていく。
大熊町では、双葉病院に入院中の認知症患者と、隣接する老人介護施設の高齢者のうち227人が一時取り残された。原子炉が水素爆発し
て20-30km圏内の住民10万人以上が各地の避難所へ避難する混乱の中、132人は医師・看護師を同乗させないまま観光用バスに乗せら
れ、13時間かけて200km移動した。残りの95人は5日後に自衛隊によって救助されたが、最終的に50人が衰弱死した。
このように、福島県では強制的な避難によって避難所を転々とする中で高齢者の犠牲になる事例が多く、震災関連死の認定者数も最も多
い。
また、放射性物質の拡散は双葉郡に留まらず福島県の広範囲に広がった。12日20時には25キロ北の南相馬市で20μSV/h、15日4時には40
キロ南のいわき市で24μSV/hの最大値を計測した。晴れていたため風と共に通り過ぎる一時的な上昇であり、時間と共に低減していった。最
も深刻な被害を及ぼしたのは、3月15日6時頃に発生した2号機の圧力抑制室の損傷である。9時には正門付近で11,930μSV/hを計測し、最
大量の放射性物質が放出されたとみられるこの日は、午後には南東からの風に乗り、北西方面へと流れた。40km離れた飯館村では16時に
23μSV/hと急上昇し18時半には45μSV/h、伊達市を経由し、60km離れた福島市でも17時に22μSV/hと急上昇し19時半には24μSV/hを計測し
た。南東の風が長時間続き、高濃度の放射性物質が流れ込んでいる所に、不運なことに17時頃から圏内各地で雨(雪)が降り始めたため、
放射性物質は地面に落ちて土壌に沈着した。このため、北西方面に伸びるように深刻な土壌汚染を引き起こし、そこから発する放射性物質
は長期に渡ってさまざまな被害を及ぼした。
飯館村や伊達郡川俣町の一部は1か月後、伊達市の一部地域は3か月後に避難指定を受けたが、その指定から外れた福島市や伊達市な
どの中通り北部を中心に母子避難や妊婦避難など数万人単位の自主避難者が発生する事になった。
地震の揺れ自体でも、福島県は被害が大きく、犠牲者数も最も多かった。内陸の中通り地方でも被害が目立ち、白河市では六反山が大規
模に崩落し、13人が犠牲に、須賀川市では藤沼ダムの高さ18m、長さ133mの堤が一気に決壊し、約150万tの水が、樹木を巻き込んだ高さ
2-3mの鉄砲水となって1キロ以上離れた滝地区を襲い、8人が犠牲になった。地震によるダムの決壊は日本初であり、世界的にも記録がな
い。また、郡山市では市役所の一部が倒壊し1人犠牲になるなどした。
この白河市から郡山市にかけての中通り中南部は他県の内陸市町村に比べて家屋損壊も際立っており、矢吹町では総戸数の30%の家屋
が全半壊、鏡石町では総戸数の23%の家屋が全半壊、郡山市では2万戸が全半壊、これらは共に津波被害のない内陸市町村としては最大
級であった。
また1ヶ月後の4月11日には、いわき市南部の井戸沢断層付近を震源とする内陸直下型地震が発生(震度6弱)した。この地震により、井戸沢
断層と塩ノ平断層、また市内中部の湯ノ岳断層が同時多発的に数十kmに渡ってそれぞれずれ動き、市内至る所で断層(最大落差2m)の出
現や土砂崩れ、地割れが相次ぎ4人が犠牲となった。

茨城県
茨城県は、沖合が震源域となり、そのうえ関東平野の弱い地盤も重なって、宮城県や福島県と共に広範囲で激震を観測した。
地震の揺れ自体による被害としては、震度6以上の揺れを観測した市町村は29市町村であり、これは宮城県26市町村、福島県33市町村と並
んで多かった。NEXCO東日本の各インターチェンジに設置された震度計で震度6強相当以上を観測したのも、宮城県6地点と福島県6地点に
次いで茨城県3地点であり、その中でも最大震度を観測したのは水戸南ICであった。
そのため、揺れによる家屋損壊も福島県と宮城県に次いで大きく、犠牲者数も福島県に次ぐ多さであった。
東海村で常陸那珂火力発電所の煙突200m付近で作業員9人が作業中だったが、鋼鉄製の床板とともに転落した4人が犠牲に、行方市では
鹿行大橋が崩落し1人が犠牲になるなどした。
津波が被害としては、浸水面積は23km^2であり、福島県と接する北茨城市で犠牲者が出た。また、高萩市、日立市、ひたちなか市、大洗
町、神栖町などで市街地が浸水した。
液状化現象の被害も広範囲であり、特に霞ヶ浦・北浦南岸から利根川下流一帯の潮来市、神栖町、鹿嶋市、稲敷市などで被害が大きく、1
万戸弱が被害を受けた。

千葉県
津波の被害としては、浸水面積は17km^2であり、旭市で14人の犠牲者(行方不明者2人)が出た。また、銚子市、山武市など北東の沿岸部
が浸水した。
液状化現象による被害としては、東京湾岸の埋め立て地で液状化現象が相次ぎ、特に市域の大部分が埋立地であった浦安市では深刻な
被害が発生した。
我孫子市布佐東部地区の液状化では119棟の家屋が全壊扱いとなった。我孫子市は2012年1月時点での倒壊恐れのある約50棟に解体を
要請したが、修理して住み続ける人もいた。
香取市佐原にある伊能忠敬旧宅でも震度6の地震動により被害が生じ、歴史的建造物が並ぶ小野川の護岸が一部崩れ、「正文堂書店」の
ほとんどの屋根瓦が落ちるなど、利根川河川敷など香取市内で大きく液状化被害があった。「大原幽学遺跡旧宅」で敷地の地割れや地盤沈
下、「旧堀田家住宅」では漆喰に亀裂が入り、「法華経寺法華堂」で、天蓋の飾りの一部が落ちた。
また、市原市にあるコスモ石油千葉製油所では大規模なコンビナート火災が発生した。